はなむけ

 門出を迎えた大切な人へ向けて、花束を贈る。
 だから「花を向ける=はなむけ」なのかというと、そうではない。
 はなむけの「はな」は「鼻」。
 いざ出立せんとする人を見送るそのとき、旅の伴侶となる馬の鼻先を、これから向かう方角へと向けてやる。古来より続くそんな風習が「はなむけ」の語源である。
 惜別の念に堪えつつ、みずから轡(くつわ)をとって馬の身を返す。別れ際には、送りだす側にも相応の心持ちが求められるのだ。


 あくまで私見だが、驚きという感情は、自分のあずかり知らぬところで物事が進んでいたことを後になって知ったときに、とりわけ強いものとなるらしい。
 だがほんとうは、兆しというものは「日常」や「普通」と同時進行で常に起こっているはずだ。どこかしらでなにかしらの形をとりながら、いつのときにも。それが本来の姿、当たり前のことなのである。
 ここに、掌におさまるほど小さな美しいガラスのうつわがある。
 ガラスは脆いものの象徴のように言われるが、うすはりでもないかぎり、多少強い力で握ってみたところでへなっと変形してしまうものではもちろんない。
 それはそうなのだが、聞けば、ガラスという物質は一所に定着することなく「たゆたっている」ものらしい。固形物のようでいてじつはそうではなく、ガラス質を構成する成分は人の一生の何倍もの時間をかけて動き、変化を続けているのだ。ガラスがガラスとしてあり続けるうちは、ずっと。
 人の営みもまた同じであろう。
 日常、普通、平凡などというものは、大雑把に巨視的にとらえてみてはじめて見えてくるのであって、実際は、たゆたっている。
 だからこそ、日々の暮らしや人とのつながりにも微細な眼差しを注ぎ、みずからを省みる。当然あるものと思わず、大切にする。そういった姿勢が、時には求められるのかもしれない。


 道端に河津桜の木が立っている。
 ふだんは気にも留めず素通りを決めるくせに、枝に蕾が目立つようになると、人は途端にその存在を意識するようになる。わたしもその一人だ。
 ひと月ほど前に蕾に気がついたのは、ほんのりと色づきはじめたから。青いままでは素通りだったろう。この桜の開花の成り行きを見届けたい、今を盛りと咲き誇る姿が見たいと思った。
 まだ寒いなか、ほかの花に先駆けて懸命に咲こうとする河津桜の花は、毎朝わたしの目を楽しませ、心を和ませてくれた。それでも花の命は短いもので、まもなく散り落ちてしまった。
 河津桜の存在はまたもとのように、ただの一本の街路樹へと戻り、背後の景色に溶け込んでいった。
 しかし、である。
 花は散っても幹や枝はあるのだし、その跡には葉がつくのだ。
 われわれは、花としての美しい姿にあまりに目を奪われるあまり、その根っこや幹、枝、葉といったものに無関心になりすぎてはいなかったか。
 生命の発露は花だけではない。そのことに目が向いたとき、木のすっくとした立ち姿、葉の一枚にすら、いとおしさを禁じえなくなるのだ。

 

 なにとはなしに生きていると見過ごしがちな「当たり前」を見つめつづけ、その支えとなるべく、華やかなステージを去って新しい道を選んだ人。
 その優しさ、柔らかな勁(つよ)さ、笑顔を忘れない。
 わたしは馬の鼻を向けてあげるような立場にはないが、旅立ちを見送らんと集う大勢の群れの末席で、遠ざかっていく後姿を見つめながら、前途洋々たることをただただ祈念するばかりなのである。

 


f:id:koboshisan:20210306143726j:plain