こけしワールド(2/2)

 もうひとつの包みから出てきたのは、撫でるようなひと筆で糸ほども細い目が引いてある、素朴な表情のこけしであった。全体に黒ずんでいるのは手擦れの跡であり、旧蔵者(子ども?)の愛玩のほどがうかがえる。福島の土湯温泉の産という。
 赤ん坊を抱きかかえるように左の掌で後頭部を包み、右手で胴部を回して細部を確認していくと、ほどよく手になじみ、しだいに形容しがたい手離しがたさを感じるようになった。その後もしばらく手に取ったり、置いて立ち姿を見てみたりを繰り返す。
 「あなた、それ気に入ったわね」 
 にんまりと笑みをたたえた店主の目は、商売人のそれであった。やはり、百戦錬磨のバイヤーの目は節穴ではなかったというべきか。はたまた、わたしの様子があまりにわかりやすすぎたのか……いずれにせよ、はい、図星です。
 提示された価格も手ごろ。聞けば、買い付けの額が抑えられたためその価格で出しているものの、本来はそんな値では買えないクラスのものらしい。殺し文句としては常套句だが、けっして嘘偽りのないことはよく伝わった。
 さてどうするか――ここまで条件がそろっても決めきれず、なお悩む理由が一点だけあった……人間の姿をした像を自室に置くこと自体にむずかしさを感じていたのである。

 書画を中心に陶磁器、漆など幅広く集めている昵懇の人が言うには「人間の姿をした像が部屋にあると、その像から見つめられているような気がして良い心地がしない」。じっさい、彼の膨大な蒐集品のなかにそのようなものは見当たらない。
 以前この話を聞いたとき、「まさかそんなことは」と思った。よいものはよいのだし、よいものをコレクションに加えられるのであればそれでよいじゃないか。
 ところが、自分が部屋に飾っているもの、仕舞っているものに思いを致してみると、わたしの場合もたしかにそういったものが見当たらない。彼とわたしとは永年の付き合いで感覚を共にすることが多いのだが、どうやらその話を聞くずっと前から、わたしもまた人物像を無意識に避けていたようなのだ。
 そんな経緯も手伝ってか、そのこけしを連れて帰ることはなかった。人間ではなく動物の姿をしていれば、立体ではなく平面であれば、せめてもっともっと小さければ……話はまったく違っただろう。
 前編で言及した赤べこは、牛。動物の像である。部屋の目立つところに置かれればなんら違和感なく主役になれるし、棚の奥にほこりをかぶって仕舞いこまれていても日常の風景に融和する。起き上がりこぼしは人物の像だが、親指ほどのサイズで、顔の描写は高度に抽象化されているのでリアリティーは皆無である。そういった動物やキャラクターにいくら見つめられたところで、居心地の悪さは感じない。
 人物が描かれた絵画もあるが、立体ではなく平面のためか、存在の強さは抑制される。四角形のスペース内に行儀よくおさめられているし、掛軸ならば表具、額装ならば額というフレームでさらに囲われ区画立てられている。その枠を越えてこちら側まで飛び出てくるような心配はない。
 だがこけしについては、まだわずかのリアリティーを保っているように思えてしまう。店主には申し訳ないが、あくまでわたしの場合は、自室に置けば異物感・違和感を禁じ得ないだろう。この基準でいうと、秋葉原で売っているようなリアルなフィギュアなどはもってのほかである。大げさな話かもしれないが、自室という究極のパーソナルスペースに物言わず対話のできぬ他者のペルソナを持ち込む勇気を、わたしはどうしても持てないでいるのだ。

 それでもなお、こけし愛好の豊穣なる世界に興味深いものを感じたのは確かである。あのこけしのことを思い出しながら、こけしのよさを本当の意味で理解できるようになる日がいつか来るといいなとも思う今日このごろである。