硝子のうち/そと(2/2)

 「写真や映像で済ませてはいけない。かならず実物を、自分の目で見なさい」
 若い時分にそういった“鉄の掟”を徹底的に叩き込まれたことの有難さと、不仕合せさとを思う。
 写真と実物はまったくといっていいほど違う。見え方が、迫ってくるものが異なる。そこまではあえての説明を要さないだろう。
 それでは、ガラスケース越しに見るもの、肉眼で見るものとの違いはどうだろうか。これもまるで別物である。もっと言うと、工芸であれば、目で見るだけの状態と素手で手に取って質感や重さを肌で感じる状態とでは、得られるものの豊かさに天と地ほどの差がある。
 その歴然たる差異は、視覚や触覚から得られる絶対的な情報量・純度の開き以上に、定量化できない感覚的なところにおいてより顕著に出るといえよう。
 そんなとてつもない世界の一端を、ごく早いうちに垣間見てしまったのだ。
 だからこそわたしはいつも、ガラスケースの向こう側の作品を、心にやましいところを抱えながら見つめている。そして、せめてしつこく観察してやろうと、血眼になって静かに格闘している。知ってしまった以上、甘んじて受けるほかない不仕合せといえよう。
 ほんとうはなにひとつ、わたしと作品とのあいだに介在させたくない。眼鏡も単眼鏡も、頑として使わない。フィルターがかかるほどに、結ばれる像はぼやけてしまうのだから……


 そんなわたしからすれば、MOA美術館の「存在しないかのように存在するガラス」は、古美術を蒐集し、身近で親しみ、みずからの作品に取り入れている杉本さんであるからこそできた上等な「仕掛け」であったように思われたのだった。


 ※ときおり専門店の暖簾をくぐったり、コレクターを訪ねるなどして渇望を満たすと同時に観る目の補正を試みるが、もどかしさは消えない。