“中古典”の美術(2/2)

 斎藤美奈子に『中古典のすすめ』という著作がある。紹介文を要約すると「ベストセラー」以上「古典」未満の「ひと昔前のベストセラー」を集めた書評本である。取り上げられているのは土居健郎『「甘え」の構造』、小松左京日本沈没』、浅田彰『構造と力』……なるほどたしかに、一世を風靡しその時代を象徴するようなラインナップであるが、「名作」「名著」ましてや「古典」というにはちょっと苦しい。古本屋の投げ売りの定番と言い換えてもいい(おそらく「中古典」は「中古」にもかかっている)。
 誤解を承知のうえで言うならば、美術の周縁にも「中古典」に似た存在といえそうな描き手・分野がたしかにある。実篤はその最右翼であろう。
 美術史学の俎上に乗ることはなく、通史から弾き出されている存在。ところが、デパートや画廊では頻繁に作品展が開かれていていつも盛況であり、美術館に飾られる機会がときおりあったり、すでに個人美術館が立っていたりもする。美術界の外の人からすればいわゆる美術作品との違いがわからず、むしろその範疇にあるものと思いこんでいる人もいる……そんな中間的な描き手は多い。
 ざっと浮かぶところでは、山下清安野光雅星野富弘谷内六郎、原田泰治、山田かまち、あいだみつを、いわさきちひろ竹久夢二中原淳一小松崎茂あたり。いずれも根強い人気があり、わたしもいいなと思う描き手が含まれている。絵本作家や漫画家などもここに加えてよいのだろう。
 なぜそこに線引きがあるのか。そもそも線引きなるものが本当にあるのか。ここで答えを出すことはむずかしいが、なんにせよ、人の心に訴えるものを描くこと/演出することは容易ではない。
 従前の枠組みにとらわれずに「表現」の核心に迫ろうという気概の生まれるとき、こういった作品にあえて当たってみるのも、案外近道といえるのかもしれない。実篤画を観ながら、そんなことを思っていた。